9月25日(木)午後2時から熊本市内のKKRホテル熊本内「天草」において2003年度秋の定例研究集会が開催されました。木下秀明会員(前日本大学)と山本英作会員(筑波大学)による研究報告が行われ、参加者の間で活発な討論が行われました。当日の座長を務められました、中村民雄会員(福島大学)と楠戸一彦会員(広島大学)に発表の総括をしていただきましたので下記をご覧下さい。

 今回は研究集会に43名(うち院生11名)、終了後同ホテル内「相生」で行われた懇親会に35名の参加があり、遠方からも多数の会員が参加されました。現地世話人を務めていただいた榊原浩晃会員(福岡教育大学)、お手伝いいただいた福岡教育大学大学院生の皆様に深くお礼を申し上げます。

 

報告者:木下秀明会員(前日本大学)

テーマ:永井道明にみる「撃剣」から「剣道」への史的考察

 本研究は、筆者の「問題の提起」にも明らかなように、「剣道」という名称を提唱したのは、明治44年11~12月にかけて文部省主催による「撃剣及び柔術」講習会で体育理論を講義した東京高等師範学校教授の永井道明であるという仮説から出発している。

 その上で、永井が明治42年2月に欧米留学から帰国してから、大正4年東京高等師範学校に体育科が設置され、「剣道を主」とするクラスが誕生するまでの数年間、永井が行った体育理論に関する講演等を詳細に検討したものである。特に、「撃剣」から「剣道」への名称変更に永井がどのように関わったのか、時期を特定するために、講演が行われた日時の検証に多くの時間が費やされている。こうした作業を通して「撃剣」から「剣道」へ、「柔術」から「柔道」へ、「武術」から「武道」へと、用語の使われ方がどのように変化していくのかを一覧表にし、「剣道」の名称とともに、剣道・柔道の総称としての「武道」という用語の使われ方も検討している。

 木下氏は、明治44年11月の文部省主催の講習会に先立って行われた、同年7月の岡山県教育会における「体操科講習筆記」(私立岡山県教育会、明治44年9月)において、永井ははじめて「剣道」「柔道」を用いた。そして、この講演が転機となって、同年11月に開催された文部省主催の講習会では、①目的の体育を見失って技術偏重になった普通体操を反省して、命名が重要であること。②技術偏重の「撃剣」を嫌忌して、精神を重視すべきことを指摘した。③「柔道」と同じように、技術を印象づける「撃剣」を精神に関する名称である「剣道」と改称すべきことを主張した。

 このような経緯をたどりながら、永井の中では「術」から「道」への明確な転換が行われたことが明らかにされた。しかし、今回の発表で一つ気になったのは、題目では「永井道明にみる」と限定されているにもかかわらず、「撃剣」から「剣道」への名称変更という一般論に重心がかかってしまい、時としてどちらなのかわからなくなることがあることである。明治末期から大正期にかけて活躍した永井道明という人物に限定して、彼の体育理論における思想性の深まりの一事例として、「剣道」という名称変更を例にして検討されたならば、もっとすっきりとした形でまとまったであろうと感じられた。また、体操科の一教材としての名称問題に限定すれば、文部省側の考え方との比較が欠かせない視点ではなかろうか。新しい学校体操を主導する立場にあり、各地で講演活動もし、しかも「撃剣」「柔術」より「剣道」「柔道」の方がいいという発言を繰り返しながらも、なぜ、大正2年の学校体操教授要目において、「道」への改称が行われなかったのか。この点を明らかにして欲しかった。文部官僚の側に、一旦用いた教育用語はむやみに変更しないという暗黙の了解があったとしても、なぜ変更しなかったのかという理由を追求して欲しかった。

 他方、「撃剣」から「剣道」への名称変更という一般論を展開するならば、東京高等師範学校内における教科名や校友会運動部の名称変更の動きを押える必要があるし、学校を取り巻く社会、具体的には大日本武徳会の動向や、大学・高専を中心とした剣道部活動の動向を押える必要もあろう。また、警視庁をはじめとする内務省の動きも考慮する必要があるように感じられた。こうした点からの質問が多く寄せられたことからも、視点がぼやけてしまったことが惜しまれるような気がする。

 

中村民雄(福島大学)

 

報告者: 山本英作会員(筑波大学)

テーマ: ブラジル・サッカー史像の構築・再構築-ブラジル体育・スポーツ史学会(1993-2002年)における研究動向を手掛かりに-

 

 従来の体育史専門分科会における研究発表が日本と欧米の体育史あるいはスポーツ史を中心としていた中で、山本会員によるブラジルのサッカー史に関する発表は非常に新鮮かつ興味をそそるものであった。山本氏は、先ず、ブラジル・サッカー史を語る場合の時代区分に関して、「ブラジル体育・スポーツ史学会」創設(1993年)から2002年までのサッカー史に関する研究発表の動向を参考にしながら、次のような彼独自の時代区分を提示する。(1)「人種デモクラシー」に基づくサッカー史像(1940年代―1970年代)、(2)「伝統」と「近代」、「民衆文化」をめぐるサッカー史像(1970年代-1990年)、(3)「グローバリゼーション」と再構築されるサッカー史像(1990年代-現在)。この時代区分に基づいて、彼は「長らく公認されていく伝統的な」ブラジル・サッカー史像、つまりR. Pilhoの小説『ブラジル・サッカーにおける黒人』(1947年、1964年)におけるサッカー史像がいかに構築され、そして「それが批判され多様に構築されていく歴史的経緯」について、社会背景をも考慮に入れながら、当日配布された資料に沿って発表を行った。配付資料の分量からすると、60分という発表時間は短すぎると思わせるほど、盛りだくさんな発表内容であった。

 質疑応答ではさまざまな質問がなされたが、ここでは次の2点に言及するに止めよう。その一つは、Pilhoによる小説に対する歴史的事実を確認するための資料についての質問であった。これに対しては、当日配布された添付資料に基づく詳細な回答がなされた。もう一つは、今回の発表を「学位論文」としてまとめる際の中核的問題と論文構想に関する質問であった。この点に関しては、時間の関係もあり、発表者と質問者との間の溝は埋まらなかったようである。

 最後に、司会者としての感想を述べて、山本会員の「発表総括」に代えよう。ワールドカップで5度の優勝を遂げたブラジル・サッカーの歴史を解明しようという彼の研究は、資料収集の困難さを考えれば、大いに賞賛されてしかるべきであろう。ただ、発表内容に関しては、以下のような疑問を感じた。(1)論点が多岐におよび、どこに焦点があるのか理解しづらかった。例えば、ブラジル体育・スポーツ史学会におけるサッカー史に関する研究動向を先行研究として分析するとか、Pilhoの小説の初版と第二版を比較検討することに焦点を当てても良かったのではないか。特に前者に関しては、副題と発表内容の関係が理解しづらかったこととも関係している。(2)「サッカー史像」という概念の下で何を問題にするのか、曖昧であった。なるほど、彼はこの概念についての説明を行ったが、必ずしも十分に説得的ではなかった。このことは、サッカーの何についての像なのか、という点に関する分析の枠組みが不充分なことに起因すると思われる。

 ともあれ、山本会員は今回の発表内容に基づいて学位論文を作成する意向のようであるから、その成果に大いに期待したい。

楠戸一彦(広島大学)